有明海からの報告

はじめに

 有明海には筑後川・菊池川などの川が注ぎ込み干潮時には広大な干潟が広がる。  
また、ムツゴロウの海あるいは海苔の生産地として有名である。  

ここでは、有明海のもうひとつの顔を紹介する。  

 有明海の東岸の福岡県大牟田市・熊本県荒尾市とその周辺地域には三池炭坑があった。  
1997年3月。三池炭坑はその124年の歴史に幕を閉じた。  
地元ではまるで呪文のように「粛々と・・・」の言葉が唱えられ、あの三池争議の土地とは思えぬ静かな閉山のようすであった。それから19年の月日が過ぎ深い眠りについた街がある。

明治時代に

 大牟田市の南部地域から掘りはじめた坑道は南の荒尾市へと延び、やがて有明海の海底へと向かう。炭層を追って伸び続けた坑道は隣の高田町や大和町の沖を通過し、柳川市さらに筑後川河口付近まで達していたという。坑道の延長は260kmとも300kmとも言われている。海面下、地下数百メートルの場所、しかも気温30度、湿度100%の中で石炭が堀り出される。
 一方、南国の光があふれる海の上では、冬の朝、氷点下の気温と寒風のもとで黒く光る海苔が摘み取られる。太陽の恵みから産み出されるふたつの黒い産物。海の上と下で産み出されるふたつの産物。そして「光」と「闇」が交差する世界。これがもうひとつの有明海である。

写真を

 撮りに出かけると余計なことをしているようで恥ずかしくてならなかった。そんな私を救ってくれたのは、図らずもその場で出会った人々である。坑口の撮影では、閉山を目前に閉鎖の作業中だったが、ケージ巻き上げのようすから、湯気の上がる風呂まで案内してもらった。その人々の眸のなかに、もう終わったのだという悲しみと迷い、あるいはやれやれという安堵感、それに仕事に対する誇りなどが入り交じった気持ちを読み取れたような気がした。
 そして、皆さんいちように 「めずらしかヤツん来たばい。どこん変わり者じゃろか。」との表情を見せながらも、「こげなもんで良かならどうぞ」と素朴に歓迎していただいた。

 また、ある時は、通称「ダバ」、胸のあたりまであるゴム長を借り、まだ暗い海を沖に止めた船まで歩いた。

 のり摘みの作業は夜明け前に終わった。白々と夜が明けるころ、海苔の加工小屋から立ち上る湯気には磯の香りがした。アルコールは苦手だが磯の香りがするコップ酒をごちそうになった。美味かった。朝酒に轟沈した。

百余年の

歴史のなかで何もなかった寒村に住宅をつくり水道を引いた。山を削って谷を埋め鉄道が敷かれた。街ができ港をつくり、最後に人口の島まで造り上げた。そして今、その街の姿は急速に変わった。

国家や民族・文明などは自然に発生するものであるとすれば、この町の歴史は近代日本のなかでも類い希な、人の意志によって作り出され人間の都合によって終焉を迎えた文明、「人工の文明」ではなかろうか。

ファインダ−の向こうにミニサイズの国や文明の発生から消滅までが見えると言っても言い過ぎではないと思う。

この町は

 この国の近代を知るには、また人間が何をしてきたかを知るには格好の材料である。ところが、残念なことに、この国には、日本人という民族には歴史が語りかけるものを受け止め、しぶとく、そして執念深く保ち続ける姿勢はない。

炭坑節に出てくる三池炭坑の煙突は今も健在である。ただ、あまりにも多くのものが人知れず失われてしまった。かつて保存をお願いした炭坑社宅はもう残っていない。幾ばくかの建物が保存されようとしている。それだけでも簡単なことではない。

だが残念なことに、それは「産業遺産」としての保存「栄光の歴史」の保存に過ぎない。

一つの時代を築いた人間の営み、負の部分も含めたミニサイズの文明、そしてそれがかならず滅び行くという人間と歴史の宿業を丸ごと後世に残すものではない。 ミニサイズの文明の跡はもう残っていない。

遠く離れた街から、人生の大部分を過ごした大牟田を見ています。

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